魂の修行と品格

「現世を生きる」ことは、魂の品格を上げるための修行です。良いことも悪いことも、それを乗り越えて精進(努力)することが修行です。禅堂に入って修行することも、社会の中で生き抜いていくことも、同じ修行です。ところが、同じように生きていても、「品の良い人」と「品の悪い人」とが出てくるのはなぜでしょうか?

「品の良い人」は、生きてきた環境によって、自分が気がつかないうちに「利他」を実践している人です。「利他」を実践しているので、他人から攻撃されることは、ほとんどなく、相手をよく観察しているので、不安になったり気分が悪くなることが少ない。それが好循環となって、安定した心が生まれ、安定した心は、冷静な脳を生み出し、間違った判断や行動をしなくなります。結果として穏やかな生活が得られます。また「類は友を呼ぶ」ように、「品のよい人」には「品のよい友」が集まってきます。これも好循環。

「品の悪い人」は、生きてきた環境によって、自分が気がつかないうちに、「自己中心」を実践します。自分と他人を比較し、他人の良い部分を妬み、自分に都合の悪いことには、怒りや憎しみを覚えます。自己中心の生き方は「被害妄想」や「うつ病」の要因にもなりますし、不安定な心を生じさせやすくなることで、冷静な脳を保てなくなり、動揺する心を生じさせ、間違った判断や行動を起こします。また「類は友を呼ぶ」ように、「品の悪い人」には「品の悪い友」が集まってきます。これは「悪循環」。

日本では、宗教というと「お葬式」というイメージが強い。確かに、人が死を迎えたとき、人類誕生以来、「葬儀」という儀式が行われてきたので、こういうイメージもありますが、宗教とは、本来、「人はどう生きたらよいか?」「どう生きるべきか?」を説いた哲学です。そして、人は、他人と共存した社会の中で生きているので、他人との関わり方が人生において重要です。ここで「利他」を実践するか、「自己中心」を実践するか、で、「品が良い人」になるか、「品が悪い人」になるかが決まります。仏教の根本の哲学は「慈愛」と「利他」の精神です。ブッダは、この根底の精神の上に、「どう生きれば人間は幸せになれるか?」を「八正道」というわかりやすい論理的な形にまとめて説明しています。

日々の生活の中で出会う人を、よく観察してみましょう。「品の良い人」なのか、「品の悪い人」なのか。来寺される方々は、ほとんどが「品の良い人」です。それは、上述した理由によるものと思います。

残念ながら、今の日本は、「品の悪い人」が増えているように思います。ニュースを見ている限り、社会的に偉い政治家、偉い経営者であっても、「品の悪い人だな!」と思う人はよく見かけますね。彼らは、想像するに、いつも「生きながらにして修羅の世界に落ちている」ように見えます。「修羅の世界」とは「いつも争いが絶えず、心が落ち着かない世界」です。

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