挨拶は、禅宗から出た言葉です。〈挨〉はお弟子さんが先生に命をかけて禅の奥義を質問することです。〈拶〉は、先生がお弟子さんの質問に答え、また逼(せま)ることです。 禅宗では、挨拶は真剣勝負のやりとりだということです。 みなさんは、朝の「おはよう」を真剣勝負のところで考えてやっていますか?また、子供たちが挨拶したとしても、親たち先生たちが、挨拶を真剣に返してくれますか? 挨拶ひとつで人生が変わるわけがないと思っているのではないでしょうか。 あるおばあちゃんの話で私が感動した話です。
〔私の二男で、特別何のとりえも無い漁師の二男に嫁を迎えました。この嫁は、特別教養があるわけでもないのですが、体だけは健康やというので、いただいたのでございます。嫁に来てくれた最初の朝のこと、お膳がととのったので二男が席に着きますと、その時嫁は急に改まって両手をついて 「おはようございます」と丁寧におじぎをしたのです。私たち親としては初め、二男がもしや嫁に軽蔑されていぬかと案じたのですが、立派に夫として立てられている様子を見まして、気持ちよく安心したのでございます。 嫁は、今でも毎朝の 「おはようございます」 を続けております。 孫たちもこれを見て上手にお辞儀ができるようになり、夫婦、親子、主人と使用人の間に親しいながらも礼儀がしっかり行われるようになったのも、嫁が十年一日の如く行いぬいた、「おはようございます」のまじめな態度が生んだ賜物でありますので、ほめるのも変ですが感心な嫁でございます。 実は、手前ども若い時代を顧みて、こんな簡単な礼儀さえ怠っていたことがつくづく恥ずかしく思った次第です。そして、私たち年寄りとしては、大きな箪笥や鏡台やピアノが運びこまれるより、何よりも大切な心の宝を持参してくれたこと、どんなに良かったか知れません。孫娘たちにも、どうかこの一番大切な心の宝だけは持たせてやりたいものだと思っております。〕
挨拶が人生を幸福にしてくれることもあるのです。お嫁さんは、新婚最初の日に、命をかけて「おはようございます」と挨拶をし、習慣として十年一日続けた。おばあちゃんはこれを見て自分自身を反省したのです。 本山の生活信条に「一日一度は静かに坐って、身(からだ)と呼吸と心を調えましょう」と、あります。 朝一番に、今日はすばらしい挨拶をしようと思い、夜には今日はちゃんと挨拶できたのだろうかと反省してみてください。 人間は、誰かに挨拶が悪いなんて言われると腹がたちますが、自分自身が、「今日僕はちゃんと挨拶ができただろうか」と思うと、心が調うものなのです。 調(ととの)えることは、調べることでもあります。いつも、私たちは、自分の心を調べ、調える習慣をつけることが大切ですね。