私は仏様、如来、菩薩、天部、阿羅漢を工芸、美術品として感じていました。
しかし、鈍感な私は、意味の深さが、まだ一つだけしか、気づきが、学びがありませんでした。
同郷の水上先生に学ばさせていただきました。
天邪鬼は、仏教では人間の煩悩を表ます。邪鬼であり、四天王、十二神将に踏みつけられています。
毘沙門天の足元を見つめ、動きを封じ込められた生き物に興味を惹かれました。
天邪鬼は、足で踏みつけられていても、天をにらみ、歯を食いしばっています。一生をそうして踏みつけられて生きる立場は哀れです。天邪鬼の目は、おのれの精いっぱいの力を振り絞った心意気のようなものやその目に宿る楽しみの境涯までも捉え、このように生まれたことをそんなに悲しんでいないのだ、と思います。
私は、自分に問いました。障がいある人に対して、不幸な役回りの多くを障害を背負ったものに感じていたことはなかっただろうか。
村にある寺の本堂には青銅の雨受け鉢があり、それを捧げ持っていたのは3人の童子でした。天邪鬼と同様に同情を禁じ得ない存在である童子たち。驚いたのは、彼らが重たい水鉢を支えながらにっこりとほほ笑んでいたことだった。この水鉢をつくった人は、どうしてこんな人間たちをここに彫ったのか不思議でした。
寺で見た天邪鬼や村の本堂で見た童子たち。
その記憶を甦らせたのは、足に障がいのある子供達でした。その見せる笑顔は、かつて、水鉢を捧げ持つ童子の笑顔に重なりあっていきました。一生歩行障害の苦労を背負う身でありながら、このような不幸を抱えて、どうしてこの子は微笑するのだろうか。
そんな教えを学び、自分の愚かさにガッカリします。
こんなに意味深いのだと教えられました。