家庭というものは、敬いと愛の場所であって、子供たちを育てる道場です。どうしてこれを乱すことができようかと、その大切さが示されております。
私たちの文化は、子供を育て、人間としての形成をはかる場として、「家庭」を最良の場として歴史をつくってきました。
「日本一短い家族への手紙」(角川文庫)という本に次のような一文がありました。
ありがとう。ごめんなさい。
大好き。大嫌い。
愛していたり憎んでいたり、
一緒に住んでいても、
離れて住んでいても、
もう二度とあえなくても、
それでもどこかでちゃんとつながっている。
ふだんは空気のようだけど、
いつもは不満だらけだけれど、
帰って来るのはここしかないね。
みんな一つ屋根の下で生活を共にし、朝起きて顔を洗い挨拶を交わし、食事し、働きに出掛け、夕方になればここに帰り眠ることを毎日繰り返しているのが「家庭」であります。
これは釈尊の時代から今日まで何千年来、いかに世の中が進み、便利になってもその役割は何ら変わってはいないのです。
日本の家庭では、みんなの暮らすお家の中心にお仏壇を置き、お仏壇の無いところでも床の間を造り、心落ち着ける空間をしつらえて、朝な夕なに手をあわせ、喜びにつけ悲しみにつけ、祈る場がありました。
そこは「仏と、その教えと、その仲間」を宝とし、敬いと感謝を行ずる所でありました。父母、祖父母のそうした姿はみ教えとなって、子や孫の宗教的素養を育んできたのです。
何年か前になりますが、東仙台の善應寺で早坂さんというお宅のおじいさんの葬儀の時でしたが、孫の敬ちゃんが述べた「お別れの言葉」に参列者みんなが涙しました。亡くなったお祖父ちゃんはもちろんのこと、早坂家は代々信心の篤いお宅です。
その人の立ち居振る舞い、日々の暮らしに見る人間性は、その人が亡き人となった時、生きていた時以上に浮かび上がってくるものです。
花園の敬ちゃんの「お別れの言葉」を紹介しましょう。
「じいちゃん、覚悟は決めていたつもりだけど、その時がこんなに早くやってくるとは思ってもいませんでした。早板家はずっと六人家族なのだと思っていました。大きくなってからの私は、じいちゃんに口答えばかりする孫だったかもしれません。今はじいちゃんにもっとやってあげられることがあったのではないかと、自分を責めたい気持ちでいっぱいです。-略-
『垂れ下る稲穂に祖父の頬ゆるむ』自分の作ったお米に誇りをもっていたじいちゃんを書いたんだよ。胃の手術を受けてから入退院の繰り返し、その度にじいちゃんの好きなものが一つずつ奪われて行ったよね、バイク、タバコ、庭の手入れ、そして生きがいであった田圃の作業までも……。-略-
じいちゃんは頑固で口も悪かったけれど、とても人思いでやさしい人でしたね。じいちゃんは病気になって辛かっただろうけど、じいちゃんが病気になってから家族の絆が強まった気がします。協力することの大切さを知りました。-略-
じいちゃん、十六年間本当にお世話になりました。じいちゃんとの思い出を胸に刻み、家族五人、力を合わせて頑張っていきます。ばあちゃんもじいちゃんの分まで大切にします。だからずっとずっと私たちを見守っていて下さいね」
家の歴史であり、家族の柱であった祖父との別れの悲しみの中で、敬ちゃんは大切な教えを祖父からの贈り物としてしっかり受け止めているのです。
参列者を感動させた孫のお別れの言葉は、このお家代々の当主が「子女養育の道場」としての家庭を育んできたからであります。
山田無文老師の短文「水の如くに」の中に
「流れる水は凍らぬとか、流れる水は腐らぬとか。それが生きておるということであろう。田畑をうるおし、草木を養い、魚を育てながら、決して高きを望まず、砥いほうへ低いほうへ水の流れる如く、わたしも流れたい」
とありますが、先祖というはるかな流れの中に今ある「いのち」は、「仏と、その教えと、その仲間」を宝として「水流れる如くに」暮らしの中に行じていくことによって、「信じあい、支えあい、拝みあう」敬愛の場としての家庭をうるおし、養い、育てていくのです。