我が子の死が善の知識を

死生観は、大事です。しかしそれは、一人一人違うでしょう。
この話を思い出します。
平安時代の女流歌人として知られる和泉式部が最愛の子を亡くし、悲しみのあまり作った歌が次の歌でした。
 「子は死して たどりゆくらん 死出の旅 道しれずとて 帰りこよかし」
 人間の死後の世界はまっ暗やみの中を一人でトボトボ歩いて行く様に聞いているけれども、もし亡くなった我が子が途中で道に迷ったら、そのまま自分の所へ帰って来てほしいと歌ったのです。そして次の歌も我が子に先立たれた苦しみ、悲しみの中に歌ったのでした。
 「もろともに 苔の下には 朽ちずして うづもれぬ名を 見るぞ悲しき」
子どもが亡くなった時にお墓に埋葬された、その時なぜ自分も一緒に埋葬してくれなかったのか。お前はなぜ私ひとりを残して死んだのかと亡くなった我が子を恨んでいたのです。
 しかし、その和泉式部もやがて、佛のみ教えに出会い、心境が変わって来ました。
それが次の歌でした。
 「仮にきて 親にはかなき 世を知れと 教えて帰る 子は菩薩なり」
 仮にきてというのは亡くなった我が子は仮に私を母親としてこの世に生まれて来た、その子が私に何を教えてくれたかと言うと、
 お母さん、いつまでも死んだ私を当てにして、なげき悲しむのは愚かな事ですよ。死んだ私をいつまでも当てにするのではなく、佛のみ教えを頼りとして生きるのですよと、教えてくれた。その教えてくれたのが実は亡くなった我が子だったと言うのです。
 それまではお前はなぜ私ひとりをおいて死んだのかと、子どもを恨んでいたのが今度は亡くなった我が子を菩薩として合掌して拝むようになったというのです。
 まさに和泉式部にとっては亡くなった我が子が善知識だったのです。
 我が子の死という悲しい体験を通して、親子の縁を仏縁とし、みごとに昇華させたのですね。
我が子の死が善知識を教えてくれたのですね。

おりん

仏壇や葬儀でも皆様ご存知、チーンと鳴らす仏具の「おりん」。もともとは座禅をする宗派(曹洞宗や臨済宗)などの禅宗で使われていた仏具ですが、現在はすべての宗派で使用されています。「おりん」のお寺さんとしての意味は読経の際に音を鳴らして、音程とリズム合わせのために鳴らされます。おりんの音色と同じ音程でお経を読み始めます。

一般的に仏様にお線香をあげ、手を合わせる際の合図として使われることが一般的です。また「おりん」が響かせる音は、空間を清めて邪気を払うとされています。供養や祈りを「おりん」の音に乗せて、極楽浄土に届けるともいわれます。

細かい話をしますと、浄土真宗でも、宗派により音色が違うと言われています。

入院

お世話になってます病院に手術入院して12日経過し、後10日で肩の固定装着具を外し通院予定です。
この病院は入院と外来に別々の病院になっています。
感じた事は、優れたDr、Nurse、職員staff、お掃除さんまで、熱心、親切、とても印象が良く、たくさんのスタッフがいても、1人も嫌な印象がなく、それでいて善し悪しはっきりと教えてくれます。
しかし、問題があります。
いくらスタッフが良くても患者もモラルと良識がなければ台無しになります。
そう思いましたのは、
男性トイレの立ち便器の下の床にに小便が毎日こぼれ、たまっています。毎朝夕、スタッフが掃除しています。
洗面台で、歯磨きをしますが、前の鏡に歯みがき粉の滴がはねて白い斑点になっています。
同じく窓の前でも、窓ガラスが白い斑点だらけです。
洗面台は水はねで水びたし、毎朝夕、スタッフは掃除してくれます。
私が言いたいのは、患者はスタッフに依存し過ぎです。そうしたくても出来ない患者もいるでしょうが、できる事は少しでも協力し楽しくはならないかもわかりませんが、気持ちの良い入院生活をおくりたいものです。
患者の寄り合いや回覧板日記など定期的に話し合う事により共有の場所の心がけ、挨拶から和やかな会話と経験話、スタッフへの橋渡しにもなり、雰囲気を作るのは患者だと思います。
そんな事を意見箱にいれました。

先ほど、意見箱の職員さんが話を伺いたいと来られました。
また、意見をお聞きしたいと、私も無知ですが、協力しますと別れました。
昨日も挨拶から進展し手術に至った話を伺いました。
70代男性Aさん、膝が痛く、人生残りが見えているなか、手術で足腰弱くなるやも知れないから、痛みを我慢してこの先やっていくか、それともいっそ手術して短期間動けないけど後は、楽になれると決断するか。悩んだそうです。
私は例えを話しました。
以前、25歳の青年に話しました。
人生80年として、今の家が傷み暗く建て替えたいが、資金が足りなく貯まるまで35年待ち家を建てるなら20年間満足を味わえます。
しかし、25歳で家を35年ローンで家を建てると60歳頃修理は必要ですが、55年間満足できます。
私は、Aさんが手術されたのは英断だと話しましたら、安心されたように、ニコニコされていました。
いろんな相乗効果が望めますねと職員さんに話しました。

仏の花と書いて仏花

仏教では花をとても大切にしています。花は美しく咲く日のために、寒い冬の間暗く冷たい地中でジット耐え、春の訪れを待っています。その忍耐力が私たちの生き方のお手本になるのです。辛いことや苦しいことがあったとき、お仏壇に美しい花が飾られていると思わず掌を合わせたくなりませんか。それはお釈迦さまが指し示された忍耐の心を象徴するのが花だからです。
 お釈迦さまはたくさんの教えを遺されていますが、法華経の中に変わった行いをする修行者が登場するお話があります。この修行者は会う人ごとに『私はあなたを敬います。決して軽んじたりはいたしません。何故なら、あなたは仏様になる人だからです』と礼拝することを修行とされていました。ところが、あまりにも丁寧に合掌礼拝を繰り返すので、愚か者扱いをされていると思った町の人たちが怒りだし、悪口雑言を並べて罵りますが修行を止めようとはしません。ついには木の枝で叩いたり、瓦や石を投げつけますが、避けるようにその場から走り去ると、今度は少し離れた場所から大きな声で同じ言葉を繰り返したのです。何をされても怒らず休むことなく続く修行は、やがて町の人々の心に伝わり、本当の修行者であることが理解されるようになりました。この修行者は「常に汝を軽からず」と唱えていたことから常不軽菩薩と呼ばれ多くの尊崇を集めました。忍耐することの大切さがこのお経に説かれているのです。
 今の世の中は、毎日世界中の何処かで戦争が起こっています。憎しみには憎しみで返す人が多いからです。菩薩さまは憎しみに愛を返したのです。これこそが、何ごとにも耐える心を持ちなさいという教えで、仏教ではこれを忍辱(にんにく)と呼び、仏道修行の徳目の一つになっています。忍という文字は心の上に刃が乗っています。移ろいやすい心の迷いを切り取る意味があるからで、忍耐は人生の苦しみや怒り、恐怖や欲望などの感情を抑える鎧になってくれるはずです。
 お仏壇の花がいつも拝む私たちの方に向けられているのも、仏さまが、厳しい寒さに耐えて咲いた美しい花を見たら「花の心をお持ちなさい」と諭されておられるからでしょう。花は仏教のシンボルなのです

人の品格

品格とは

人の品格とは何か?人生を歩むについれ、様々な方と出会い、交流し、その過程で「品の良い人」「品の悪い人」と出会います。「品が良いか、悪いか」を主観的に見てしまうと、それは真理ではなくなります。客観的に見る必要があります。

人の品格について、思考を巡らせると、自分では気がつかないうちに、「品の良い人」は結果として「利他」を実践しているように思います。逆に「品の悪い人」は「自己中心」を実践していると思います。

「利他」とは、他人を利する行動で、かつ、見返りを求めない行動です。単に、他人を助けるとか、支援するとかの狭義の意味合いではありません。例えば「八正道」の一つである「正語」とは、「相手の状態をよく観察し、今、その人にとって一番良い言葉をかけてあげること」です。現代社会は情報化社会です。インターネットを通じて、広く発言することが可能になっています。いっぽうで、発言が多くの方に行き渡る中で、「誹謗中傷」がひどい状態になっています。真実が見えないまま、自分の思い込みで発言し、人を傷つける。これは「正語」ではありません。逆を言うなら「悪語」でしょう。「悪語」は、さらに、自分の心(脳)を痛める要因になります。

「品の良い人」は、自分では気がつかないうちに「利他」を実践しているので、人に意見したり忠告したりする際には、相手の状態をよく観察し、その人にどのように話しをしたらよいか考えてから話すでしょう。

「品の悪い人」は、相手の状態をよく観察せぬまま、自分が感じた不快感を、そのまま口にするでしょう。「自分が不安」だから、「自分の気分が悪い」から誹謗中傷という発言をしてしまいす。つまり「利他」ではなく、「自分のため」の自己中心的な行動です。人に意見をしているつもりが、実は、自分のストレスを発散しているということです。自分のための発言であって、相手のための発言ではないということです。会社で上司から叱られたとき、同僚の前でひどい叱責を受けたということはよくある話ですが、これは上司自身のストレスを発散させているだけで、部下のためになっていないということです。品の悪い上司ですね。品の良い上司は、部下をよく観察し、部下のために、仕事がうまくいくようにアドバイスする上司です。叱責の中に、「思いやり=慈愛」の心があれば、自然に部下の心に届くでしょう。

現在、コロナ禍の中で発生している問題も同様です。感染するかもという不安な心が、自粛警察とか、医療関係者に近寄って欲しくないという心を作ってしまいます。人は不安になると「自己中心」を実践しがちです。それぞれの人の本性は、「不安な状況に陥ったとき、どう行動するか」で見えてきます。調子の良いときには、本性は見えにくいものです。

「現世を生きる」ことは、魂の品格を上げるための修行です。良いことも悪いことも、それを乗り越えて精進(努力)することが修行です。禅堂に入って修行することも、社会の中で生き抜いていくことも、同じ修行です。ところが、同じように生きていても、「品の良い人」と「品の悪い人」とが出てくるのはなぜでしょうか?

「品の良い人」は、生きてきた環境によって、自分が気がつかないうちに「利他」を実践している人です。「利他」を実践しているので、他人から攻撃されることは、ほとんどなく、相手をよく観察しているので、不安になったり気分が悪くなることが少ない。それが好循環となって、安定した心が生まれ、安定した心は、冷静な脳を生み出し、間違った判断や行動をしなくなります。結果として穏やかな生活が得られます。また「類は友を呼ぶ」ように、「品のよい人」には「品のよい友」が集まってきます。これも好循環。

「品の悪い人」は、生きてきた環境によって、自分が気がつかないうちに、「自己中心」を実践します。自分と他人を比較し、他人の良い部分を妬み、自分に都合の悪いことには、怒りや憎しみを覚えます。自己中心の生き方は「被害妄想」や「うつ病」の要因にもなりますし、不安定な心を生じさせやすくなることで、冷静な脳を保てなくなり、動揺する心を生じさせ、間違った判断や行動を起こします。また「類は友を呼ぶ」ように、「品の悪い人」には「品の悪い友」が集まってきます。これは「悪循環」。

魂の修行と品格

「現世を生きる」ことは、魂の品格を上げるための修行です。良いことも悪いことも、それを乗り越えて精進(努力)することが修行です。禅堂に入って修行することも、社会の中で生き抜いていくことも、同じ修行です。ところが、同じように生きていても、「品の良い人」と「品の悪い人」とが出てくるのはなぜでしょうか?

「品の良い人」は、生きてきた環境によって、自分が気がつかないうちに「利他」を実践している人です。「利他」を実践しているので、他人から攻撃されることは、ほとんどなく、相手をよく観察しているので、不安になったり気分が悪くなることが少ない。それが好循環となって、安定した心が生まれ、安定した心は、冷静な脳を生み出し、間違った判断や行動をしなくなります。結果として穏やかな生活が得られます。また「類は友を呼ぶ」ように、「品のよい人」には「品のよい友」が集まってきます。これも好循環。

「品の悪い人」は、生きてきた環境によって、自分が気がつかないうちに、「自己中心」を実践します。自分と他人を比較し、他人の良い部分を妬み、自分に都合の悪いことには、怒りや憎しみを覚えます。自己中心の生き方は「被害妄想」や「うつ病」の要因にもなりますし、不安定な心を生じさせやすくなることで、冷静な脳を保てなくなり、動揺する心を生じさせ、間違った判断や行動を起こします。また「類は友を呼ぶ」ように、「品の悪い人」には「品の悪い友」が集まってきます。これは「悪循環」。

日本では、宗教というと「お葬式」というイメージが強い。確かに、人が死を迎えたとき、人類誕生以来、「葬儀」という儀式が行われてきたので、こういうイメージもありますが、宗教とは、本来、「人はどう生きたらよいか?」「どう生きるべきか?」を説いた哲学です。そして、人は、他人と共存した社会の中で生きているので、他人との関わり方が人生において重要です。ここで「利他」を実践するか、「自己中心」を実践するか、で、「品が良い人」になるか、「品が悪い人」になるかが決まります。仏教の根本の哲学は「慈愛」と「利他」の精神です。ブッダは、この根底の精神の上に、「どう生きれば人間は幸せになれるか?」を「八正道」というわかりやすい論理的な形にまとめて説明しています。

日々の生活の中で出会う人を、よく観察してみましょう。「品の良い人」なのか、「品の悪い人」なのか。来寺される方々は、ほとんどが「品の良い人」です。それは、上述した理由によるものと思います。

残念ながら、今の日本は、「品の悪い人」が増えているように思います。ニュースを見ている限り、社会的に偉い政治家、偉い経営者であっても、「品の悪い人だな!」と思う人はよく見かけますね。彼らは、想像するに、いつも「生きながらにして修羅の世界に落ちている」ように見えます。「修羅の世界」とは「いつも争いが絶えず、心が落ち着かない世界」です。

品格

人の品格について、思考を巡らせると、自分では気がつかないうちに、「品の良い人」は結果として「利他」を実践しているように思います。逆に「品の悪い人」は「自己中心」を実践していると思います。

「利他」とは、他人を利する行動で、かつ、見返りを求めない行動です。単に、他人を助けるとか、支援するとかの狭義の意味合いではありません。例えば「八正道」の一つである「正語」とは、「相手の状態をよく観察し、今、その人にとって一番良い言葉をかけてあげること」です。「品の良い人」は、自分では気がつかないうちに「利他」を実践しているので、人に意見したり忠告したりする際には、相手の状態をよく観察し、その人にどのように話しをしたらよいか考えてから話すでしょう。

「品の悪い人」は、相手の状態をよく観察せぬまま、自分が感じた不快感を、そのまま口にするでしょう。「自分が不安」だから、「自分の気分が悪い」から誹謗中傷という発言をしてしまいす。つまり「利他」ではなく、「自分のため」の自己中心的な行動です。人に意見をしているつもりが、実は、自分のストレスを発散しているということです。自分のための発言であって、相手のための発言ではないということです。
会社で上司から叱られたとき、同僚の前でひどい叱責を受けたということはよくある話ですが、これは上司自身のストレスを発散させているだけで、部下のためになっていないということです。品の悪い上司ですね。品の良い上司は、部下をよく観察し、部下のために、仕事がうまくいくようにアドバイスする上司です。叱責の中に、「思いやり=慈愛」の心があれば、自然に部下の心に届くでしょう。